『毒親』『人格障害』と思える実母から逃走中の娘(30代)

専門家でもなければ、専門家から診断されたわけでもありませんので、『思う』実母から逃走中の私の話です。

『比較しての自分ありき』は恐ろしい?

毒親という言葉は広がっているようなのですが、なんだかたいそうなものになっているような気がします。

毒になる親から来ていると言われている『毒親』。
書籍にもなっていたりしますね。
そのレヴューをみてとても違和感を覚えたのですが、自分なりに納得できる答えが見つかりました。

『こんなのは毒親なんかじゃない、普通のことだ。』

というようなレヴューが必ずと言っていいほど一つ二つはあり、内容に違和感を覚えました。
本として世に出版して料金を戴けば、それなりに評価されるのは当たり前だと私は思っています。
いいと思う人もいれば、良くないと思う人もいるでしょう。
それは、仕事として世に出ればそうなるものなので、どんな評価もあり得ると思います。
私は全く思いませんが、自分の親の悪口を書いてお金をもらうのか?って思う人もいるんじゃないでしょうか。
でもそんな中でも際立ってざわりとするレヴューが先ほどの

『こんなのは毒親なんかじゃない、普通のことだ。』

でした。そう思う評価もありだと思いつつもざわっとするんです。
どうしてかなぁとぼんやり考えていて浮かんだのが母の顔でした。
私が毒親で人格障害だろうと思ってる母です。
母ならそんなこと言ってもおかしくない。
そして、自分がどんな待遇を受けてきたかを語り、それよりはずっといい、それよりは幸せなのに、なぜこんなことを言っているのか。と。
母の声で再生されそうな勢いでした。

私は専門家じゃないのですが、「この程度で何を言っているの?私なんか」っていうのを本気で思うようになったら危ないんじゃないかなと思います。
まず、発信している人が毒だと感じ苦痛だと感じることを否定し、自分はこれほど大変だったと自分を肯定します。
だから、自分のように苦しんでいない人は大したことがないという目線になっています。
なので、母が私にしてきたことの中で私が酷いと感じても「自分はもっと大変だったのだから、こんなことたいしたことではない」と強制してきたのです。
何が大変と感じるか、何を辛いと感じるか、全部自分基準なんです。
比較しての自分がありきなんです。

何度も書いていますが、母もたぶん被害者でした。
理不尽な思いもいっぱいしてきたでしょう。
ですが、被害者が自分の受けた仕打ちと他の人の受けた仕打ちを比較し、この程度でなんだと一蹴している状態が既にそうなってきてしまっているんだと思うのです。
酷い思いをした人たちというのは、誰がどれだけというのはもう関係ない思うんです。
比べて何になるんでしょう。
そんなに毒親の定義、こうでなければ毒親なんて呼べやしないというのが必要なんでしょうか?
私にはそう思えません。
そこに入り込んだら、自分もそこに近づいてしまうと思います。
たまに、何か違うなぁ?って思う話はありますが。
それはそれで。
それが相手を否定する理由にはならないと思うのです。